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(アートアニメーション私的調査室)


2005/04/13 Ver.0.1 2005/04/15 Ver.0.2
2005/04/17 Ver.0.3

アートアニメーション(ArtAnimation)とは何か
定義

 「アート・アニメーション」という言葉は比較的新しい。そこで思い切って現在の私の定義から述べよう。

 アートアニメーションとは「アニメーション」という技法を用いながら、必ずしも商業化・大衆向け娯楽作品を目的とせずに、芸術性の高いレベルにまで達するほどの気概で作られ、またそのことが他人に認められた作品。
 一人もしくは少人数が主体になって作られることが多いが、必ずしも個人作品にはとどまらない
 アートアニメーションという言葉はアニメーション作品全体の中の一部のカテゴリーを示すものであるが、「アートアニメ」とそうでないものを分けるのに万人が認める厳密な境界線を引くのは困難であると予想される。

 上の定義は他で述べられている「アートアニメ」の定義と異なるかもしれない。たとえばITmediaの「openArt、世界中のアニメーション120本を配信」という記事ではアートアニメーションを以下のような形で紹介している。

 「アートアニメーションとは、Disneyやジブリといった大きな製作会社ではなく、少人数あるいは個人が製作した芸術性の高いアニメ作品のこと。人形や粘土、CG、線画などさまざまな制作方法があり、その方法自体が作品の味となっている。」

 私もそのITMediaの記事での定義は概ね正しいと認めるが、けれども私は製作スタジオの大小や製作技法で区切ることはしたくない

 というのも、少しでもきちんとしたアニメーションを制作する際には個人制作の場合も何らかのプロダクション・スタジオを作ったり、利用したりする場合が多かったし、ディズニーや虫プロダクションといった(規模はともかく名前だけでも)、大きなプロダクションの作品の中にも「アートアニメーション」に分類したい作品がそれなりにあるからである。

 また製作技法に関しては、商業アニメで多用されているセルアニメの中にもアートアニメーションに分類したくなる作品がある。

 そこで私はアートアニメの定義をもう少し広めに使うこととしたい。
 その理由はアートアニメという言葉を使ってカテゴリ分けすることに後述のような意義を感じているからで、それは制作スタジオや製作技法によって限定されるべきではないと思うからだ。

【特徴】

 では、もう少し具体的にその特徴を個条書きにしてみよう。

 最後に書いた「アニメーションが極めて労力のかかる表現手法であること」はよくよく理解しなければならない。21世紀に入った、特にこの日本という国では、アニメーションが溢れかえっており、このことはアニメーションにおける制作の困難さを想像させるのを難しくしている。

 さてそれよりも、大多数の人にとってはいまいちピンとこない、という場合が多いのではあるまいか?
 そういう人は我慢して以下を読んで頂くか、あるいはいくつかの作品を実際に見ていただくと良いだろう。

 アートアニメーションという言葉は確かに曖昧なのだが、それでも現実に「アートアニメ」が存在する以上、いくつかの作品を見ていただくのが一番早いと思う。というのも....

アートアニメは百聞は一見に如かず

 少し話が逸れるが本当にそう思うのはささやかな以下の一件があったからだ。

 アートアニメーションの一分野に「パペットアニメーション」(人形アニメ)という分野があり、この大家として川本喜八郎氏がいる。(川本氏の作品については後述も参考のこと。)

 私が新しく知り合った友人に、私が興味を持っているパペットアニメーションがどんなものかを示すため、まずはスターウォーズの特撮であるAT-ATの登場シーンを見せたのだが、それに対して彼は「ふ〜ん」という感じの冷めた反応であった。

 「スターウォーズ 帝国の逆襲」で登場したAT-AT(スノーウォーカー)〔左〕と川本喜八郎氏の「道成寺」での人形〔右〕。両者はコマ取りアニメと呼ばれる同じ手法で作られている。
 さて、あなたは両者あるいはどちらかに「アート」を感じることが出来るか?(笑)

 続けてその友人に川本氏の作品を見せようと思ったのだが、川本氏の人形は人形劇で知られており、多くの人にはアニメーションではなく人形劇のイメージを強く持たれている。
 人形アニメと人形劇は違うもの
であるから、見せる際に「人形劇じゃないんだよ、コマ撮り人形アニメなんだよ」と強調しながらも、心の中では
「ああ、きっとこれも人形劇との差異すら感じずに『ふ〜ん』という感想なのかな」
と諦めていたのであるが、彼は川本氏の作品を一見してその映像に引き寄せられ「これはスゴイ!」と画面にかじりついてくれたのである。

 その友人は芸術的なセンスもあるようなので、その為もあって「分かって」くれたのであろうが、それにしても同じコマ撮りアニメでありながら娯楽大作映画の中で出てきたAT-ATのシーンと川本氏の作品の違いを彼が鋭く感じてくれたとき
「ああ、やっぱり川本氏の作品はアートアニメーションなんだなあ...」
と感じると共に
「アートアニメの存在を言葉で伝えることの難しさ、『アート』(芸術)であることを伝えることの難しさ」
を痛感するとともに
「見せるのが一番早い、分かる人は見せれば分かる」
と思うようになったわけである。

アート・アニメーションという用語問題あれこれ】

 「アート・アニメーション」(Art-Animation)と言う言葉はおそらく日本語の造語なのではないかと思われる。さらに少なくとも古い言葉ではない。というのも私がこの分野に初めて興味を持ち始めてオフシアターなどに通っていた1995年の頃にはこの用語が使われていた記憶がないからだ。

 その後、私がこの分野に再度関心を持った2003年になると、いつの間にかこの言葉が出来ていた。この「アート・アニメーション」という言葉の登場経緯や由来、出典はいずれ調べてみたいと思っている。

 ともあれ言えることは、2000年以前の日本にはこの範疇に属するアニメーション作品を表すのに適切な言葉・語彙が無かったということである。

 以下、私が扱うようなアニメーションについてどのような用語が使われてきたかについて少し考えてみよう。

 まず、現在アートアニメと呼ばれる作品の中にはかつて「実験アニメーション」などと呼ばれたものもあるが(例:『手塚治虫実験アニメーション』)、アートアニメ全体から見ると本当に「実験」と言える段階のものは一部である。あるいは逆に全ての作品が実験作品とも言える。

 「カルトアニメーション」「マイナーアニメ」などの言葉が使われることもあるようだが、それらは社会における広がりの仕方を示すだけの相対的な言葉である。(私のサイトではそれらの作品が「マイナー」から脱することを願って作っている。)

 「非商業アニメ」という言葉はアートアニメーションの言葉の定義から考えて比較的正しいにせよ、アートアニメと見なせる作品の中にも商業化が目的の一つとして目指された作品もかなりある気がする。

 「自主制作アニメ」という言葉は比較的以前から使われることが多く、非商業アニメをイメージさせる部分がある。

 「プライベートアニメーション」という言い方もあるようだが、その言葉からは「プライベートフィルム」と同様、個人の間で利用するだけの、ごく私的な作品に聞こえる。

 アニメーションのうち、主に子供向けとして商業用に作られたアニメ作品を「漫画映画」「漫画アニメ」と呼ぶことがある。これはむしろアートアニメーションの対極を表すものであるが、しかし漫画映画の中にも特に古い作品の中には「アートアニメーション」に分類したくなる作品もあるし、その価値を大いに肯定する人々は限りなく「アートアニメ」としてそれらの作品を鑑賞しているのが事実である。(たとえ「アート・アニメ」の言葉を使わなくても...)

 それから、日本や米国で一般化している、大衆向け娯楽作品が「アニメ」という「アニメーション」を略した言葉で言われることが多いために、

アニメ』と言えばジャパニメーションやディズニー、その他米国でのメジャーな映画・TV作品

アニメーション』と言えば実験アニメーション、自主制作アニメーション、アートアニメーションなど、上の『アニメ』に属さない、(現在での段階では)マイナーなアニメーション作品群

という感じ使われることがあるようだ。

 では英語ではどうかというと、日本のアニメーション作家の一人である山村浩二氏のブログによると「インディペンデント・アニメーションIndependent Animation)」「ファインアート・アニメーション(Fine-Art Animation)」などの用語があるようだが、やはり用語として広く呼び慣わされた用語はないようだ。

 そんな状況であったから「アート・アニメーション」という言葉が生み出されたのはある種、極めて妥当なことだと思うのだが、山村浩二氏のように「アートアニメーション」の言葉を批判的に見る人々もいるようである。

 すなわち「アートアニメーション」作品群をいっぱひとからげにして「アート」であることを決めつけることに対する抵抗感や、「アートアニメ」とそうでないものを分けることに対する不信感らしい。
 山村氏などは「所謂アートアニメ」を「アニメーション」とよび、それ以外のものを「アニメ」と呼ぶことで分けたいと考えているようだ。Anidoの代表でアニメーション史家であるなみきたかし氏も「アニメ」と「アニメーション」で表されるものが異なると考えているようだ。

 確かにその気持ちは分からないでもないが、しかしアニメーション全体の中には「アートアニメーション」という言葉でくくりたくなる、くくらざるを得ない作品群が厳然としてそこにあるし、歴史的にもある。また、ただの「アニメーション」という言葉では今までの日本の「アニメ」を除外する雰囲気がない。すなわち「アニメーション」といっただけでは、「ジャパニメーション」と呼ばれるような作品やディズニーのような大規模な企業制作のアニメーションを排除する語幹が全くない。

 以上のようなことを考えると、私はそれらの作品群を表すのにこの言葉「アート・アニメーション」を使うのはやむを得ない、いや、それ以上に相応しいと感じている。
 そして何よりこの言葉を使う必要性に関して後述のような意義があると考える。

 よって私はこの「アートアニメーション」と言う言葉を積極的に使いたいと思う。そうすることで今まで日本では溢れる商業アニメの陰に隠れがちだった、「アートアニメーション」に属するような質の高い芸術的作品達あるいは後世に残すに足る歴史的作品達の素晴らしさを多くの人に伝える一つのきっかけになると思うのだ。

ほしのこえ
*なお、新海誠ほしのこえ」のDVD BOOKにおいて、かまたゆたか氏は新海氏のその作品を「パーソナルアニメ」と名付ける新しいジャンルのパイオニア作品と位置づけている。氏の記述によれば「パーソナルアニメ」とは1980年代から発展してきた、氏が関わってきた自主制作のCGアニメ作品達を指したいようだ。

 だが私は新海氏のその作品も含めてそれらのアニメは「アートアニメ」の一種であると確信する。
 かまたゆたか氏によれば「パーソナルアニメ」の特徴として

などを挙げているが、それらの特徴はまさしく当ページで述べているアートアニメの特徴ほとんどそのままなのは明らかであり、氏が関わってきたというCG(コンピュータグラフィックス)はアートアニメの表現技法の一形態に過ぎないと考える。はっきり言えば「アニメーションの歴史」を無視するような形での定義である気がしてならない。

**余談になるが「アートアニメ」と似たような曖昧さを持つ言葉は他にもいくらでも見つけられる。たとえば文学で言えば「純文学」とか「SF(ScienceFiction)」という言葉があるが、これも曖昧ながらも「現にそのジャンルは存在する」一典型だと考える。

【アニメーションへの偏見】

 私はこのサイトで敢えて「アートアニメーション」という囲いでアニメーションの一部をくくり、それに属する作品として紹介したいと考えている。

 実は私としてはこれ、すなわちアニメーションの中に柵を設けて分けることは本意ではない。すなわち、私自身
アートアニメーションなどというくくりが出来るわけがない、いや、理想を言えばアニメーション全体がアートとも言いたいのだ」
という気持ちがある。
 そのような中でなぜ「アートアニメーション」という形でスポットライトを浴びせねばならぬのだろうか?

 それはアニメーションの発展があまりにも偏った形で大衆に広まったからである。

 まずはアニメーション史全体に果たしたディズニーの役割が大きい。そしてディズニーの一貫した「子供を中心とする家族向け娯楽作品」という路線が人々の頭に「アニメはそういうもの」という固定観念を植え付けてしまった。

 さらにディズニーの大きな影響を受けた日本では、鉄腕アトムのTVアニメ化以降、多くのアニメ作品がTV・映画向けとして、主に商業目的で子供向けを想定して大量に作られてきた。そして更に日本のコミック・漫画文化と融合して商業アニメとして大きな発展を遂げた。
 確かにそれら商業アニメの中には優れた作品も少なくないし、野心的だった作品も少なくなかった。その結果、それらの作品は「子供」という年齢に止まらず、子供から青年も含んだ年齢層にまで受け入れられるほど質が高まって、ジャパニメーションとして世界に知られつつある。

 だがその結果、人々の多くで「アニメ」というものは

というような偏見が否応なしに出来てしまっているのだ。

 考えてみて欲しい。趣味を聞かれたときに「映画鑑賞です」と答えても笑う人はいないだろうが「アニメーションです」と答えたら、どう思われるであろうか?おそらく「子供っぽい」とかあるいは「オタク?」と思われるのではなかろうか?

 私がこのサイトで紹介するようなアニメーションを思い浮かべる「アニメーション通(つう)」な人は滅多にいないだろう。

アートアニメとして注目する意義

 けれども....アニメーションという手法は、芸術的なモノを表現する、有力な一つの手法であり、これは決して子供向けだけに相応しい手法では決してない。

 20世紀は「映像の世紀」とされるほど映写技術が社会に影響を与えた時代である。「映画(映写)」という形の新しい表現方法が登場したのである。それは無論、ニュースなどの形で実用的に使われることもあったが、また「映画」という形も発展した。映画では無論いろいろな作品が登場したけれども、文化を担う、芸術の一つとして評価される作品も決して少なくない。
 映画を芸術のジャンルに入れない意固地な学者が、果たしてどれくらいいるであろうか?

 ところが、それと大してかわらない、否、表現手法としては通常の実写映画よりも多様性のあるアニメーションは前述のような扱いと偏見を受けるようになってしまった。

 その影響があまり大きくて「芸術」として作られたアニメ作品もしくは「芸術価値」を持つレベルにまで達しているアニメ作品が一般の目からはすっかり埋もれてしまった、と私は考える。

 アニメーションという手法で表現された作品の中には、決して娯楽、しかも子供向けの娯楽という狭い範囲ではなく、芸術的もしくは歴史的作品として人々に知らしめる、あるいは後世に残す価値のある作品がある、というのを私は主張したいのだ。

 あるいはもし「芸術的」「歴史的」という言葉が高尚だと思うならば、「あなたの心を強く動かす作品」と言い替えても良い。

 これを読んでいる皆さんは、仮に読書好きとして本をたくさん読むような人でなくても「あの本は偶然読んだけど面白かったなあ」とかいう本はないだろうか?
 あるいは映画ファンではなくても「TVでたまたま見たあの映画に感動したことがあったなあ」ということがないだろうか?
 あるいは絵でも音楽でも良い。普段は全く絵など見ない人でも「あの絵はいいなあ」と思う作品がないだろうか?

 もしそういう作品を、本や映画や音楽や絵画であなたが持っている人なら、アートアニメーションの分野でも、その中にはあなたの心を動かす作品がきっとあるのではないかと思う。
 それほど「アニメーション全体」もしくはアートアニメーションは広大なのだ。

 けれどもそれは、あなたが「アニメーションは子供のもの」「アニメーションは娯楽として楽しむためだけのもの」という偏見を持った状態ではおそらく見つからないだろう。
 なぜなら、そのような偏見こそが既に作品を素直に受け入れる姿勢を奪ってしまうからだ。

アートアニメの果たしてきた役割

 では多数の人に注目されなかったということならばアートアニメーションに類するような作品は世の中に影響を与えなかったのであろうか?

 実はそんなことはない(だからこそ重要なのでもある)。
 アニメーションが商業化した背景としては、多くの人々がアニメーション関係の仕事に惹かれて来た就業したというのがあるが、そのような「プロの商業アニメ関係者」達にアートアニメーションは大きな影響を与えていたのである。

 それについては参考図書の「世界と日本のアニメーションベスト150」という本の紹介を見ていただくと良いであろう。このように、アートアニメーションは「商業目的娯楽作品」を生み出す人々にとって、彼らの目標あるいは参考、そして彼らがその分野を職業とする動機となってきたのだ。

 一つ例を挙げよう。

 日本初のTV連続アニメ放送として「鉄腕アトム」を世に出した手塚治虫氏であるが、右DVD『手塚治虫実験アニメーション作品』所収のインタビューの中ではその後の日本のアニメ作品に関し、虫プロの作品も含めて全体として否定的にとらえ、自分が評価・満足できるものは実験アニメーションのものしかない、という趣旨の発言をしている。
 ここでの「実験アニメーション」とは「アートアニメーション」と思って貰って良い(氏の生前にはこの言葉が無かったのだ)。

 手塚氏は漫画史のみならず、日本アニメ史を論ずる際にも良い意味でも悪い意味でも決して欠かすことが出来ない人であるが、彼自身にとっては日本アニメ史に残した自らの足跡は満足なものではなかったように見受けられ、また「アートアニメーション」こそが彼のアニメーションでの理想郷だったことが分かる。

*もっとも、あくまで「漫画映画」として作られたディズニーの「バンビ」でアニメーション作成を熱望するようになった手塚氏が、晩年は「漫画映画」ではなく「アートアニメ」に価値を見つけていたこと、さらには氏が「アートアニメ」「漫画映画」いずれの分野でも、世に多大な影響を与えるような作品を作れなかったことは皮肉ではある。
(「バンビ」が歴史的な価値を含めるとアートアニメとして扱えるかもしれないことはとりあえず置いておくとしても...)
 手塚氏のアニメ界での功績は「鉄腕アトム」によりTVアニメという形でアニメを大量生産させる風潮を日本に生み出し、それが「アニメ大国・日本」を生み出した一つの分岐点を作ったことに限られると言える。
(無論、神に崇められるほど万人に影響を与えた、漫画家としての手塚治虫氏の立場はここで言及する必要もあるまい。)
 ただし手塚氏は現代の芸術家としては若すぎる60歳で亡くなった。フレデリック・バックのように50歳以降でアニメを作り始めて多大な名声を残した人々がいることも思うと、あと20年くらい長生きしていればアートアニメとして世界に轟き渡る作品を作れていたのかもしれないが...

 どーでも良い話になるが、これに関しては世界のアニメ界に影響を与えている「漫画映画」界の巨匠・宮崎駿氏が、手塚氏のアニメ作りとその作品をけちょんけちょんに批判していることも有名だ。ただしこの批判は「漫画家としては喰っていけなかった」毒舌家・宮崎駿氏の手塚氏への愛憎相半ばした言葉であることを理解すべきであろう。

 ともあれ、アートアニメと対極位置にある商業アニメではあるが、その仕事に携わる商業アニメのプロ達は必ずしも「金になるから」という動機だけでアニメーションを作るのではない。否、むしろそれだけでは作品は作れまい。アニメを作る人々は自分たちの作る作品が質的にも高いことをどこかで望んでおり、また監督などの重要なポストを勤める人々は単に金儲けだけではなく、やはり芸術家魂で作品制作に取りかかっている部分がかなりあるはずだ。
 そんな彼らの理想の形が「アートアニメーション」と見なされるようになった作品群だと思うのだ。

 だが、芸術や質の高い作品を理解できる、あるいは楽しめるのはプロだけではないと思う。良い作品は万人にとって芸術的価値を持つ。あるいは芸術かどうかはともかく自分の人生を豊かに感じさせてくれる価値を持つ。
 そのようなレベルの作品がアートアニメーションにはたくさんあるのだ、それが私のこのページを作る理由である。


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